イナゴを洗った。次はいよいよ、イナゴを揚げる。
イナゴを揚げる。ついに来てしまった。私はイナゴの命を奪う。あまり気が進まない。
30年前の記憶を辿ると、当時、イナゴの命を奪うのは私の役目ではなかった。私は採る役目だった。そしてパンパンに詰まったイナゴ袋を祖母に渡すと、2日後、乾煎りしたものが出てきた。つまり、直接的にイナゴの命を奪うのは祖母の役目であった。その乾煎りされ、火が通って茶色くなったイナゴから、羽と足を取るのは私の役目だった。それをまた祖母に渡すと、翌日には佃煮になって出てきた。
私はイナゴを殺したことがない。たぶん、祖母も父も、イナゴを殺す役割を子供にやらせるのは忍びないと思っていたのだろう。
しかし、今回、私はイナゴを食べるために殺す。経験しなければならないことのような気がしていた。何千匹、何万匹ものイナゴを食べてきたのに、私は直接的には一度もイナゴを殺したことがない。それは矛盾していると強く思っていた。
イナゴに限らず、食べるために殺すということを私はしたことがないかもしれない。いや、食べるためにという制限を抜いても、殺生をした経験も一度もない気がする。一切ないとも思えないが、記憶にはない。
でも、日々肉や魚を食べている。毎日だ。つまり、間接的に牛や豚や鶏や魚を殺している。間接的にではあるが、本当に殺しているのだ。今この瞬間にも、屠殺場で頭を銃で撃ち抜かれている豚がいるはずである。いつもは誰かにやってもらっていることを、自分でやるだけのことだ。
そういうわけで、私はイナゴを揚げる。
今回はイナゴを揚げる。佃煮ではなく、イナゴを揚げる。素揚げで食べる。調理方法は色々と迷ったが、今回は素材の味をそのまま味わうために素揚げを選択した。佃煮に関してはズルをして一昨日食べていたので、別の調理方法を試してみたかったのだ。また、むしくいノートと
食べられる虫ハンドブックを読む限り、昆虫食で最もポピュラーな調理法は揚げることのようだった。イナゴ揚げは食べたことがなかったので、一度やってみたかったという考えもあった。
息子に言うと、見たがったので横に従えて調理した。人間の原罪を経験するのも教育のうちだろう。
動画も撮った。実際にイナゴを調理したいと思っている人は見てみるのもいいだろう。
フライパンにひたひたに油を敷き、熱する。3分ほど経つと、油が十分な温度に達した。いよいよだ。
生きたままのイナゴを投入した。正確にはトノサマバッタである。これは投入した直後だ。ほんの1秒後である。この時点ではまだ緑だ。なお、素揚げなので衣も何もつけていない。洗っただけのものをそのまま入れた。
塩を振ったところの動画も撮った。あまり意味はないが。
さあ、食べよう。
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