虫つけ麺を食べてきた。そして、イナゴから離れることを決めた。

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つい1週間ほど前、こんなツイートを見かけた。

この「地球少年」を名乗る篠原祐太氏は、昆虫食界では名の知られた存在だ。氏のサイトを見ると、いくつかのメディアに露出していることもわかる。プロフィールには大学生と記述がある。20代前半のはずだ。

この篠原氏がプロデュースした、「虫つけ麺」が販売されるというのだ。

これには、私の心が動かされた。これまでいくつもの、イナゴを乗せたメニューが様々な店で出されていたのは知っている。しかしそれらは、市販品の花九曜印 いなご甘露煮のイナゴを乗せただけのものか、もしくはアジアスーパーストアで売っているタイワンツチイナゴを安直に使っただけのものばかりだった。イナゴへの愛着とか、こだわりとかがないと感じていた。

しかし、篠原氏は違う。本気の人だ。直接会ったことはないけれど、そう感じていた。だから、何か本気のものが出てくるだろう、と思った。

一方、私が愛しているのはイナゴである。私はコバネイナゴを愛している。今回の虫つけ麺は、コオロギ・バッタ・カイコがスープに使われているという。バッタはイナゴに近いが、おそらくここで書かれているバッタは、トノサマバッタだろう。つまり、食材としては、私の心のド真ん中に刺さるものではない。私の心には、コバネイナゴしか刺さらないのだ。

でも、篠原氏にはシンパシーを感じていた。氏の本気を見てみたいと感じた。イナゴばかりにこだわっている私に対して、篠原氏は広く昆虫食に親しんでいる。しかも、社会からの注目度も高い。氏の世界観に、少しでも触れたいと思った。

だから、食べに行った。ラーメン凪 新宿西口分店である。

11時開店ということだったので、早く食べられるように10時50分頃に行った。すると、既に長い行列ができていた。30人ほどであっただろうか。

篠原氏は、この日の前日、schooで生放送授業をしていた。私はそれを見なかったが、おそらく、この虫つけ麺の告知もしたのだろう。この辺、氏は、きちんとビジネスを考えている。それはとても大事なことだ。その道を歩き続けるには、それをビジネスとして成立させる必要がある。氏の本気を、そういうところにも感じた。列に並ぶ私にとっては、早く食べたいとヤキモキする時間が長くなってしまったわけだが、これが正しい姿だろうと考えた。

券売機。今日は、普通のメニューは一切売らないようだ。虫関係のメニューのボタンしかない。

券売機の上には、虫についての細かな説明があった。手書きの、味わいのある文章である。

40分ほど並んで、やっと店に入れた。席に着く。注文したのは、「蟲フルコース」である。虫つけ麺のつけ汁全三種、麺の上に乗せるトッピングとしての虫、ミールワームの春巻、コオロギめし、むしアイスが出てくる。料金は3000円だ。高いと思うかもしれないが、昆虫が一般的な食材と認識されていない現代においては、虫は高価なものなのだ。

席に座り、注文したものが出てくるまでの数分、ぼんやりと考えていた。私は、イナゴを愛している。それに対して、今回の食材に、イナゴは含まれていない。広い意味での昆虫食に触れたい、篠原氏の世界観に触れたい、と思って、今日私はここに来た。しかし、今日の食材はイナゴではないのだ。

私はここに来る資格がないような気が、少ししていた。もちろん、カジュアルな昆虫食として、イベントとして楽しむというスタンスは、大いにアリだろう。篠原氏も、それを望んでいると思う。しかし、私は、自分の中でのイナゴの価値を極限まで高めてしまった。自分の中の意味付けを、強く大きなものにしてしまった。

イナゴを愛している私は、他の昆虫を愛していない。コオロギとカイコを愛していない。それを、私は食べていいのだろうか。もちろん、いつも、豚や鳥や牛の肉は食べている。愛とかなんだとか、考えずに食べている。そういうことを考えずに食べるのは普通のことだ。いちいち細かくいろいろなことに意味付けしてばかりでは、食べ物を食べられなくなってしまう。

しかし、私はイナゴに心酔している。他の昆虫を食べるのは、イナゴに対する忠誠心を失うことのような気がしていた。

そんなことを考えていると、まず最初にコオロギ飯が出てきた。

なんだこれだけか、と思った。小さなコオロギが2匹しか乗っていない。同時に、良かった、と思った。ここに来ている私が言うのも変な話だが、あまりにたくさんのコオロギを食べる自信がなかった。さっき書いたような忠誠心の問題と、単純に味の問題と、両面の問題がある。

コオロギは、美味しかった。抜群に美味しい、というような美味しさではない。しかし、食べられる美味しさだった。わざわざ高いお金を出して何度も食べるようなものではない。でも、たまには食べられる味だな、と思った。

このコオロギ飯を食べていると、続けてつけ麺が出てきた。ミールワーム等が乗った麺と、つけ汁3種。左から、コオロギ、バッタ、カイコの汁である。

麺に立てられた、素揚げらしいミールワーム。

ミールワームの素揚げは、旨かった。サクサクしていて、文句なしに旨かった。お祭りの夜店の屋台で安く売っていて欲しいような、素朴な味だ。

そして、つけ麺。こちらは、私には無理だった。

特段、不味いというわけではなかった。実際、麺の量としては半分くらいは食べ進んだ。もちろん、つけ汁につけて、だ。不味くはなかった。でも、食べながら色々なことを思った。さっき書いたような忠誠心の問題もあったが、汁となった虫の粉を思うと、体が受け入れてくれなかった。食べ物ではないものを食べているような感覚になった。揚げてあるサクサクとした虫なら大丈夫なのだが、虫が汁に溶け込んでいると思うと、気持ち悪いと感じてしまったのだ。

コオロギとカイコを気持ち悪いと感じることで、イナゴに対する忠誠心を、自分の中に示して、自分の中で納得したかったのかもしれない。私はイナゴを愛している、と。しかし一方で、これを食べられないということは、昆虫食の世界に足を踏み入れられないということになる。気持ちが混乱していたが、とにかく、これを食べたくないと思った。

私は一人で行ったので、カウンター席に通されていた。そのカウンター席の隣の席では、ロイターの女性記者が、この虫つけ麺をレポートしていた。やはり、マスコミからの注目度は高いのだろう。その女性記者も、あまり食べていないように見えた。もちろん、レポートに徹しているからゆっくり食べられていないのだと思う。しかし、食べる手が進まない私には、同じように気持ち悪いと思っている仲間を見つけたような気がして、少し救われたような気持ちになった。

つけ汁の味は、悪くなかったはずだ。実際、このつけ汁の味は、虫オンリーの味付けではないと聞いていた。通常のラーメンのつけ汁をベースとして、風味付けとして虫を使っていた。きちんとその虫の味はするけれど、基本的には普通の人がイメージするラーメンの味の枠を越えないような味になっていた。だから、私の気持ちが落ち着いていれば、食べられたはずだと思う。

でも、食べられなかった。麺を半分残して、もうダメだ、食べられない、と思った。気持ちの整理がつかなかった。

蟲フルコースを頼んでいたので、デザートとして虫アイスが残っていた。食べたくなった時に声かけてね、と言われていた。麺を残したまま、アイスを頼んだ。

出てきたのは、これだ。左側が、イナゴの佃煮を練り込んだアイス。右側が、イナゴの粉をそのまま練り込んだアイスだ。

どちらも、半分しか食べられなかった。店員さんは、「イナゴ」と言っていた。イナゴと表現するからには、トノサマバッタではなく、私が愛しているコバネイナゴだったのだろうと思う。イナゴだから、私にとっても慣れ親しんだ味のはずだった。

でも、食べる気になれなかった。これを食べれば、イナゴを愛していることを、少しだが、自分の中に示すことができる。しかし、それもできなかった。気持ちの整理がついていないと感じた。

麺の半分を残し、アイスも半分残して、逃げるように店をあとにした。あわよくば篠原氏と、ひとことでも話をしてみたかった。少しはイナゴを愛する者として。昆虫食界の末端にいる者として。しかし自分がこの状態では、無理だと感じた。

私は、イナゴを愛している、と言いながら、その愛は揺れていた。きちんと愛しているなら、他のものに対しても、落ち着いて対処できたはずだ。しかし、コオロギ、カイコ、ミールワームを目の前にして、私の心は乱れてしまった。篠原氏の本気を目の前にして、私の心は激しく乱れてしまった。私の中のイナゴの位置が、安定していないことを感じた。少し、落ち着きたいと思った。

しばらく、イナゴと、離れよう。

私はこのサイトを作ってから、狭い範囲ではあるが、「イナゴの人」というブランドを得た。少し、うかれていた。

あの衝動に衝かれて行った一昨年秋のイナゴ取りの日から、気持ちが変化していた。あれからずっと、イナゴイナゴと言いながらも、その情熱は、少しづつ減っていた。それが事実だ。それに気づきながら、篠原氏のような有名な人になりたい、尊敬される人になりたい、と憧れを持っていたのだと思う。それは、本当の情熱ではない。

また、本当にイナゴを求める気持ちになったら、イナゴを採りに行く。でも、今はその気持ちではない。ファッションとしての、ポーズとしてのイナゴは、やりたくない。

断筆というとあまりにも大仰すぎるが、気持ちの整理がつくまで、イナゴについて書くのはやめようと思う。さらば。

<一旦、完>

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